朔太郎の第二詩集「青猫」を読みました。この詩集は詩篇のあとに、附録として「自由詩のリズムに就て」という朔太郎の論が収録されています。
これが大変興味深い。朔太郎は韻を踏んだもののみを詩とし、散文で書かれたもの(朔太郎の立場はこちら)を詩としない、当時の世間に物申しています。
ここで、私の生きている現代の「散文」と朔太郎の時代の「散文」の違いに着目。
私が初めて「散文」という言葉を知ったのはたしか小学校高学年です。ザ・ハイロウズというバンドがあり、その青春という歌の中で「散文的に笑う」という歌詞がある。
当時私は「散文的に笑うってなんだ?散文って言ったら詩じゃない文だから、こう、ロマンがない笑い方なのかな?(当時の私は詩=ロマンチックなものという認識)」と思ったものです。
そう、当時の私の理解としては、散文=詩じゃない文。そして成長して詩を書くようになって、散文詩というものの存在を知る。散文なのに詩という混乱があったものの、今の認識としては、散文詩は疑いようなく詩です。
(自分が現代人代表というわけではなく、現代人にそういう考えの人もいる、で、ご容赦ください)
散文詩は詩。これが朔太郎の時代では異端だった。そもそも散文詩の定義が今とずいぶん違うようだ。朔太郎のいうところの散文詩は、今の私たちの行分け詩も含まれる。つまり、韻律のない詩=散文詩。
私たちの現代では、韻律のないものも当然詩として扱われる。韻律がないものなんて、という当時の風潮とはだいぶ違う。朔太郎たちが勝ち取ってくれたおかげでしょう。
韻律も当時の散文詩もリズムなれど、前者を「拍子本位」後者を「旋律本位」と朔太郎は定義している。
さて、ここに恭仁涼子(1988〜)という詩人がいる。笑
(自分が現代人略
恭仁は、朔太郎の「拍子本位」「旋律本位」の理論に頷くも、あるひとつの朔太郎の断言に、おや?と思う。
朔太郎は、旋律である散文詩は、天才じゃないと書けないと断言しているんです。
韻律に押し込めればどんな人が作っても詩になるけど、天才じゃない人が散文を書いたところで詩というものにはならないから、という理屈。
恭仁は天才じゃない。一時期詩を載せてもらっていたサイトの管理人から、毎月没をくらい、そこから自然にフェードアウトしてしまった程度の腕前だ。
しかしながら自分の作品は詩であると信じています。これは現代人として、韻律の少ない歌や詩(といっても、私と詩の付き合いはまだ4年しかない)に生まれながら親しんできたから、そりゃ朔太郎の時代よりは素養はあるでしょう。
恭仁がどうやって詩を書いているか。それは論理であります。
第一詩集を出した後、自分の方向性が見出せず迷いに迷い(連続没もこの頃)合評会などの助言で気がついたもの。というよりは教わったもの。
詩は、論理的に崩壊した文章ではだめだ。散文として意味が通じ、その前提の上で初めて奇抜さや理解されないものを狙うのが許される。
論理的な文章。これが天才じゃない恭仁が目指すところの詩の基本だ。それを下敷きに物語などを作る。これは、朔太郎のいうところの「旋律」になっているのかはわからない。そしてたぶん恭仁が自分で評価する類のものでもないのだろう。
詩であると信じる、と書いたけれど、実際のところ、詩とは何かという答えは、まだ私の中にはありません。これからじっくり探って行こうというテーマの一つ。
朔太郎と夢か何かであったら、未来では天才じゃなくても散文で詩を書いているんだよ、と報告したい。