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私は割とゲームというものが好きで、とはいえゲーマーではないのでプレイそのものはそんなにしたいわけではなく、誰かがゲームをプレイした感想を自分にも共有してほしいと思っている。

(ゲーマーと自覚していた若い頃も、ゲームは買うものの、プレイより感想を見るのが好きというか、むしろ友達の感想に共感したくてプレイしてたという部分が大きい)

で、暇な時に「なんか面白いゲーム(の感想)ないかな」といろんなブログを漁っていたら、2つの興味深いものを見つけた。

2つともに共通しているのが「ゲームの世界の住人が、それを自覚して認識している」という設定。

たとえば「どうせセーブデータをロードしてやり直せばいいと思っているんでしょう?」とか「セーブなんて機能はもう必要ないわ。私たちこれからずっと一緒だもの」とか美少女キャラクターが言ってくる。

パソコンのゲームであるので、パソコンの中のゲームデータファイルがキャラクターにより勝手にいじられたりとか、パソコンに設定した名前(ゲームの主人公の名前ではなく、つまりプレイヤーの本名である可能性も高い)を直接呼びかけてくるとか。芸が細かい。

彼女らは、自分が「フィクションの存在」であると自覚して、プレイヤーとの住む世界の違いを知り絶望。それでこちら側にアクションしてくる。

こういうの、面白いなと思って調べたら「第四の壁」という概念を知った。フィクションと現実の間にある見えない壁のことのようだ。

その「第四の壁」をキャラクターに乗り越えさせる、というのは、ゲームならではの手法なのだろう。

小説でメタ発言があったとしても、その人物が本から抜け出してこちらにコンタクトを取ろうとしているのは見たことがない。

(読者諸君、みたいに呼びかけてくる作品は多々あれど、それはあくまでその人物には自分の世界がフィクションであるという自覚はないだろう。読者の世界も自分の世界も現実であって)

では、小説でないとできない、この手の手法って何だろう?

上記のメタ発言もそうだけど、パッと思いつくのは叙述トリックだ。これはどう考えても小説という媒体でないとできない。

(余談だが、某叙述トリック小説の帯に「映画化必須!」と「あなたは必ず騙される!」とあって、いやいやどっちよとツッコミ入れそうになった。映像になって仕舞えば叙述で騙されることはできない)

では、詩という媒体ならできることは?短歌は?川柳は?色々と考える。

美少女ゲームのネタバレブログ見ながらこんなこと考えてる私は変なやつだろう。

なんにせよ、世の中興味深いものがたくさんあるから毎日飽きることがない。

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