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⭐︎朔太郎との何度とない再会

私にとって、萩原朔太郎の第一印象は「難しい」でした、なんて正直な感想。


そもそも、当時、4年前。特に文学少女だったわけでもなく、詩と出会ったばかりで下地のない(遠い学生時代に智恵子抄を愛読したけれど、むしろそれだけ)私が、そう、現代詩とも出会ったばかりの私が、まさか近代詩に太刀打ちできるはずもなく、下した判断「私にはまだ早い」。


まだ早いまだ早いと言いながらも、朔太郎の存在は詩に触れ合うにあたり到底無視できるものではなく、何度となく第一詩集『月に吠える』を読み返しました。

そのたび「朔太郎また会ったね」という、謎の友達感覚。

『月に吠える』には北原白秋や室生犀星が散文を寄せていますが、非常に朔太郎を愛していることが伝わってきます。(これだけは早々に理解できた)愛される人だったのでしょう、室生の文章からは、純粋に心の兄であり友である朔太郎の精神上の健康を祈る気持ちが伝わってきます。切実なほどに。実際、この令和の世になっても、朔太郎が偲ばれ愛されていることは、私が書くまでもないことです。

⭐︎繊細?無頼?


そう、これといって朔太郎に関して書くことはないと思っていたのですが、また『月に吠える』で再会したところ、だいぶ彼に対する印象、また彼の詩の味わいが変わってきたことに気づいたため、記事を書いています。


元々の私の朔太郎のイメージは、北原が書いた「潔癖で我儘なお坊ちゃん」という文言そのもので、吹けば折れそうな不器用で繊細な難しい人。そして寂しい寂しいと主張している人。
寂しい寂しい、孤独。あれ?誰かさんに似ているな。それが今回の気づきの発端で、誰かさんが誰かというと、私の愛する坂口安吾。言わずと知れた無頼派の作家。

⭐︎安吾の桜と朔太郎の竹


私の中で全く接点のなかったこの2人が重なったことは、私の中で大きな驚きでした。
私は、安吾は手を変え品を変え「孤独」を突き詰めて書いた人だと認識しています。
朔太郎の孤独と、安吾の孤独は、一口に孤独といっても性質の違うものでしょう。私はその違いを桜と竹に見ます。

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。

私は、朔太郎のこの竹の詩を読み返し、この青い世界で竹の生える切迫感のある恐怖、実際家の近くに竹林があると、家の床を突き破って竹が生えてくる妄想をしてしまうものですが、とてもじっとしていられない気持ちがしました。


それと同時に、ふと、安吾の『桜の森の満開の下』を読み返そうという気が起こりました。
今が桜の季節だから、そのうち読み返そうかなと思ってはいたのですが、今だな、という謎の確信を得ました。


これも安吾の代表作であり、私があらすじなどを書くまでもない作品ですが、一つだけ特筆しておきたいのは、主人公の男が「桜の下でじっと座りたい」ということ。

男は何度も恐怖し、桜の下でじっと座ることができないのでした。そんな彼は、最後にある意味でそれを果たして桜の下に佇んだままかき消えてしまいます。


そう、じっと座る。対して朔太郎はどうか。
私には、朔太郎という人が、竹の周りを絶えず歩き回っているように感じられました。

⭐︎この人相当逞しくない?疑惑


私には、今の時点で『月に吠える』を「じっとしていられない詩集」と認識しています。(今の時点でね)


詩集後半に行けば行くほど、私にはここに出てくる朔太郎が、活発に絶えず動き回っているように見えて仕方がありません。非常に活発なのです。じっと座る安吾とは対照的に、彼は動き回ることで孤独を体現しているかのようです。
驚いて最初から読み返すと、北原が序文ですでにこのような言葉を寄せていました。

君は寂しい、君は正直で、清楚で、透明で、もつと細かにぴちぴち動く。

そう、ぴちぴち動く。朔太郎の目の良さは疑いようのないもので、蛤の内臓までも見えてしまうもので、そんな目とマンドリンに親しんだ耳とを持った彼は、ぴちぴち動く。


しかも続く再販の序で、朔太郎は室生とともに、文壇の自然主義ブームにあえて逆らって嫌われていた「感情」の字をを取り入れた「感情詩社」を作ったと書いている。その上、再販を渋ったのも、おれの詩集レアなものにしたいなぁ〜という気持ちから(要約)。
なんという無頼の徒!めちゃくちゃ逞しくないか?

⭐︎静と動


序文を通り、詩篇を読み進めます。面白いなぁと思うのが、朔太郎の静かな詩からは動きを、動き回る詩からは静けさを感じられるところ。
前者は先ほどの『竹』。そして後者はこの『殺人事件』。

殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬はじめのある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路よつつじを曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者くせものはいつさんにすべつてゆく。

探偵が動き回っているのに、妙な静かさに満ちています。

⭐︎よろこび


『五月の貴公子』がなんだかんだで一番好きな詩篇かもしれません。朔太郎のよろこびがダイレクトに伝わってきます。
孤独の中の喜びか、室生の言うところの孤独に病む前の朔太郎の姿なのか。

五月の貴公子

若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどつて居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女あなたのくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
わたしは五月の貴公子である。

⭐︎終わらないおわりに


私は詩集を何度も読み返すことは珍しく、しかし何度も再会したこの『月に吠える』についても、まだまだ理解は足りていないと言えるでしょう。でも、難しい、という気持ちは薄れてきてるよ朔太郎!


まとめの言葉として何を持ってこようか迷うけど、とりあえず室生さんがあそこまで心配するほどやわな男じゃないと思うよ!たぶん!室生さん安心して!


今後私は安心感を持って、朔太郎を読み進めるでしょう。そろそろ『青猫』にいってみよっかな。

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